家を突き抜けた爆弾破片<上井草>

少年の戦争体験

 

B-29を目撃

小学1年生の 11 月の始め頃、警報を聞いて玄関先の防空壕に避難した。そろそろいいだろうと思って外に出た時、遥か上空に初めて B-29 を目撃した。1 機だけで南に向かって飛んでおり、遠目だったが大きいと思った。数分後にその機体よりも低い位置を 1 機の日本の軍用機が追いかけていくのが見えた。子ども心に「追い付きそうにないな」と思った。

逃げなかった祖父

屋内に爆弾の痕が付いたのはそれから間もなくのことだったと思う。やはり警報を聞いて家族と共に防空壕に避難した。
祖父だけは「俺は逃げない!」と言って広間に残った。
防空壕は玄関を出たすぐ先の庭に掘ってあり、完全に地下だった。壁は剥き出しだったが、天井には梁を通してベニヤを張ってあった。家族全員が入れる広さがあり、三畳くらいはあったと思う。防空壕へ逃げ込む度に祖母が念仏を唱えていたのを覚えている。
近くの畑に二発落ちた。ドスン!ドスン!と、ものすごい音と共に振動を感じた。一発は畑の中に深く落ちて、もう一発は浅いところで爆発したと聞いている。
家に戻ると襖や障子が全部外れて倒れていた。床の間の柱をかすめた破片は押入れの扉を突き抜けて、中にしまってあった布団の中で止まっていた。床の間の壁や他の柱にも破片で穴が開いた。この時の爆発では人に被害が出たとは聞かなかったが、怖かったので現場を見に行くようなことはしなかった。

後から聞いた話だが、広間に残った祖父は着弾したときの振動で座っていた体が飛び跳ねるほどだったそうで、
屋内まで破片が飛び込んできた途端広間を飛び出し、防空壕の入り口まで駆け込んできたそうだ。

その頃はあちこちで空襲があり、その度に防空壕に逃げた記憶はあるが細かいことは覚えていない。

憲兵が調べに来た欅の木

当時の事で特に印象に残っているのは、ある日憲兵が三人訪れて、庭にある大きな欅の木の太さを測っていたことだ。
現在中瀬中学校の建っている場所は戦中は高射砲陣地になっており、砲撃の邪魔になる木を調べていたらしい。幸いこの木は切られずに済んだが、直線距離で 100 メートルほど南西側の家の欅は切られてしまった。その木は軍艦の甲板にされたとその家の者から聞いた。

国民学校2年の夏、終戦

小学 2 年の夏に戦争が終わった。

戦後の思い出は、配給の物資が紙製のドラム缶で来たことだ。リヤカーで 2 つ運んできた。家族が多かったからだと思う。紙でできているのに丈夫で、戦後 70 年以上経つのに当時のまま残っている。

2018年 野良兎拝聴


1944年の秋に少年が初めて目撃したB-29は、B-29の機体を元に写真撮影用に改造されたF-13という機体名であることがその後の調査でわかっています。
この家の欅は切られずに済みましたが、現中瀬中学校に敷かれていた高射砲陣地は当時、向井草高射砲陣地という名称で、1987年発行の書籍『証言 向井草高射砲陣地の回想』の中でも、「砲撃の邪魔になる樹木を切り倒した」というエピソードが記載されています。
この建物は、再生可能な部材を使って一部間取り等を変更し、現在は杉並区の農福連携農園『すぎのこ農園』に移築され、武蔵野の原風景・「畑の前に建つ古民家」として第二の役割を果たしています
https://www.city.suginami.tokyo.jp/guide/shigoto/nougyou/1058222.html 
すぎのこ農園・古民家の柱の創
現在の柱の様子

移築前の建物の詳細は、書籍『文化財シリーズ47 杉並の民家 その三 井口家住宅主屋(杉並区上井草)』にまとめられており、杉並区立郷土博物館・郷土博物館分館にてお買い求めいただけます。

柱に創をつけた空襲は、体験者の記憶では「年明け後」との事でしたが、場所と日程に該当する記録が無いため、今後も調査を続けていきます。
人的被害が無く、警察等への報告が無かったためと思われます。
この時の空襲にお心当たりのある方、コメント欄へ情報をお待ちしています。